雨のち晴れ

自由帳

双極性障害だったとは

こんにちは!

いつだか「ADHDだったとは」というブログを書きました。

yuki-h.hatenablog.com


双極性障害と診断を受けたのはADHDと診断を受ける前でした。1軒目のクリニックで症状が改善せず2軒目のクリニックを受診したら双極性障害であると診断されました。大学4年生の頃だったと思います。そのクリニックでも症状が改善せず3軒目のクリニックをセカンドオピニオン的に受診して双極性障害ADHDであると診断を受けました。それ以来、診断名は変わらずです。

3軒目のクリニックでの問診の過程で、主治医からおそらく高校生くらいから双極性障害の可能性があったことを伝えられました。そこで、自分の過去の振り返りをかねてブログに書いておこうと思います。めちゃざっくりです。

今回は双極性障害について書きます。
あくまで僕個人の症状や体験なので注意してください。

<高校生のころ>
高校1年から学年が上がるほど荒れていったと思います。死にたいとも思いますし、こんな高校に通うのなら退学した方がマシだと思って高校卒業認定試験(旧大検)を受験するために、担任に高校で取得した単位を認定してもらうための申請用紙を提出したりもしました。3者面談では、担任との意見の違いから親そっちのけで喧嘩になったり。長い昼休みにクラスにいたくなかったので、授業の合間に早弁して昼休みは1人図書室で過ごしたり。とにかくツンツンしていたと思います。

家庭ではどうかというと、めちゃめちゃ荒れていました。自分の学校もうまくいかない、気分は不安定、妹が不登校でそれで家庭が不安定だったというのもありました。とうにかく、両親(特に父親)と兄妹仲はめちゃくちゃわるかったです。父親と取っ組み合いの喧嘩もありましたし、妹たちに対する暴言や物を投げる行為などもありました。

このブログを書くまで忘れていた記憶が蘇ってつらい気持ちになりました(汗)

と、こんな感じの高校時代でした。

<浪人時代から上京>
高校をとにかく早く辞めたい、卒業したいが先だったので大学は特に考えていませんでした。現役では1つしか受けず、勉強もしなかったので不合格。浪人を1年間しましたが結果はでず。この浪人期間も父親との喧嘩がありました。とにかく、父親との相性が悪かったと思います。このまま家にいてもだめだからということで、新聞奨学生の受験生1年制を利用して上京することにしました。

上京、初めての一人暮らし...辛かったですね。気分が不安定な上に生活リズムが乱れやすい仕事。自分に合っていなかったです。上京して1ヶ月がたったころ、マンションで夕刊を配達している時でした。なんの感情もないのに突然号泣したことがありました。泣きながらの配達です。後にも先にもこの体験はこれっきりでした。

なんとかキツイ仕事をやりつつ受験勉強をして大学に入ることができました。やっと大学で勉強ができる。そう思うと、とても嬉しい気持ちになったのを覚えています。

<大学時代>
大学時代ははやり気分が安定しませんでした。死人たくなったり死にたくなくなったり、2日間眠れなかったりなんてこもありました。眠れなくても頭がシャキッとして精力的に活動できる感じです。

死にたい気持ちが辛くなった時がありました。その時にはじめて精神科を受診しました。この時は「抑うつ」ということでSSRIを含む薬が処方されました。それが合わなかったのかはわかりませんが、この薬を服用して2日間まったく動くことができませんでした。食事も水分もお風呂もダメでした。「死にたい」と泣きながら過ごしたことを覚えています。

それがきっかけで別の精神科を受診し双極性障害と診断されました。2軒目のクリニックでは不安感が強いことをあげたらジプレキサが処方され、この副作用で10kgほど体重が増えました。このままじゃヤバいかもとおもい、今通っている精神科へセカンドオピニオンをしたら薬を調整することは可能と言われたのでこちらに通うことになりました。

<今現在>
今通っている精神科に通い始めて症状が落ち着き始めました。気分が安定しているってこんなにも素晴らしいことなのかと感動しています。ただ、双極性障害は長期的な視点でみていかないといけない病気らしいのでそこが大変ですが、たとえ長期的になろうが安定に勝るものはないので気にならないです。

双極性障害ADHDで利用した障害基礎年金や精神障害者福祉手帳なんてものについて書いてみようと思います。

では!