雨のち晴れ

自由帳

同性婚と宗教のはなし

こんにちは。

今回は同性婚と宗教に関する内容のブログを書きます。
前に同性カップルが子育てをすることに関するブログか書きました。
それも合わせて読んでいただくと、同性婚同性カップルが子育てをすることについて、より理解が深まると思います。

yuki-h.hatenablog.com

さて、今回、同性婚と宗教の問題を考えるきっかけとなった出来事があります。それは元参議院議員松浦大悟さんのtweetです。以下のような内容のtweetでした。

 

②宗教は社会より大きいと考えている人たちへの説明は一切ない。私は同性婚に賛成。しかしそれは「大丈夫だから。心配ないから」と国民を煙に巻く姑息なやり方ではなく、正々堂々と国民的議論を起こし、最後は国民自らが同性婚を選び取ったことを示せる憲法改正で実現すべき。政治家は逃げてはいけない

松浦大悟 (@GOGOdai5) January 20, 2019

 

松浦さんは①〜⑤まで連続ツイートする形で同性婚について述べていました。③〜⑤のツイートに関しては①、②のツイートと内容が異なる(例えば、同性婚と皇室、同性婚と兄弟婚)のでここに引用はしません。

 

ここでは、あくまで宗教上同性婚を認められない人と同性婚を認めるべきだという人の対立についてドゥオーキンの理論を2つ援用しながら同性婚と宗教について考えたいと思います。

まず1つ目の理論です。以下に引用します。

私は第1章において、私が宗教的信念の事項とみなす、一層抽象的な信念を述べた。それは<各人は自分の生涯を成功させるべき内在的で不可避の倫理的責任を負う>というものだ。その責任は、神を信ずる者も無神論者も共有できる宗教的態度の一部だ。それが含んでいるのは、いかなる種類の生が自分にとって適切か、あるいは品位をおとしめるかに関する倫理的問題を、各人が自分自身で決定する責任だ。たとえば、州が同性愛行為を禁止したりそれに負担を課したりするならば、州はその権利を侵害することになる。だから宗教的自由のこの正当化−自尊心は特別の保護を必要とするというもの−は、その自由を正統的な宗教の信者だけに限定する根拠を何ら提供しない。(pp.124-125.)

ロナルド・ドゥオーキン(2014)『神なき宗教–「自由」と「平等」をいかに守るか』筑摩書房 

 

まず、宗教上の理由で同性婚を認められない人の意見は、宗教関係なく同性婚を認める人と比較して特別に保護されるべきかという問題があります。

ドゥオーキンは特別な保護は必要ないと言います。

宗教を信じる人、信じない人は互いに共有できる宗教的態度を持っているからです。その宗教的態度とは「自分の生涯を成功させるべき内在的で不可避の倫理的責任」という態度です。その宗教的態度が含んでいるは「いかなる種類の生が自分にとって適切か、あるいは品位をおとしめるかに関する倫理的問題を、各人が自分自身で決定する責任だ」とドゥオーキンは述べています。この「いかなる〜各人が自分自身で決定する責任」を「自尊心を保護する責任」と言い換えてもいいかもしれないです。

この自尊心を保護する責任は宗教者だけでなく、無神論者にも平等に与えられているのです。よって、同性婚の宗教的・文化的反対論が特別に保護をされるわけではなく、同性婚容認論についても平等に保護されるわけです。
 

よって、ある宗教だから国全体として同性婚を認めないでほしいというのは、他の人々の宗教的自由や自己決定権を侵害しているということになります。


2つめの理論です。

尊厳に関する第2の原則は、倫理的価値を評価し選択する責任に関して、我々個人に対し、他者による強制的選択に委ねるのではなく、むしろ独力で決定することを課している–略–

第2の原則は、各人が次のような考え–他者は各人に対して、よき生を形成するものが何であるかに関する考えを支持する権利があるとか、各人が望み通り行うことを、他者がその倫理的価値が間違いであると考えた場合にそれを禁ずる権利がある、などという考え–を受け入れることを禁ずる。したがって、第2の原則によれば、各人は自らの文化に対してなされる、他者からの如何なる指示–それは、集合的かつ熟慮されたものであり、共同体の集合的権力や財産を全体的に有効に活用し、その成員の倫理的選択と価値に影響を与えることを目的とするものである–も、受け入れることが禁じられている。それは従属なのである。(pp.124-125)

ロナルド・ドゥオーキン(2016)『民主主義は可能か–新しい政治的討議のために』信山社


上記の引用をサクッと言うと、同性婚の宗教的・文化的反対論が、他者の尊厳侵害に抵触するので認められず、 同性婚容認論は、異性婚や他の性をめぐる生の尊厳侵害に及ばないので、認められる。というような内容になります。

ドゥオーキンの2つの理論から、同性婚を宗教的・文化的に認めないとするならば、それは他者の宗教的自由や自己決定権を侵害することになる。また、他者の尊厳侵害という視点に立脚するならば同性婚の宗教的・文化的反対論は他者の尊厳侵害に抵触していているのです。

P.S. このような理論を参考にすると、松浦さんがいう「宗教は社会よりも大きいのだから宗教者にも配慮をするべきだ」というのは無理がある主張のように感じます。宗教が社会よりも大きいという人たちが同性婚容認になるでしょうか?同性婚に対する不安や心配を不用意に煽っているといしか思えないのです。